『若きサムライのために』。

肝心なことを忘れていた。
先日のFlicker Toneの感想。
…なかなかよかった。ドラマティックな展開で始まる曲もあり、
“つかみ”がいいな、と思える曲がいくつかあった。
しかし、彼はすべてプログラミングで音楽をつくる人なんでしょうか?
そのへんはよくわからなかったけれども、Music Conceptionのなかで
最もプログラミングがうまそうな人だな、という印象受けた。


それにしても、京都勢は優れた表現者が多いなあ。
Doppel、KAMI、Echo Mountain、そしてFlicker Tone。
もちろんかつての竹村延和Rei Harakamiなど。
しかしそのほとんどが純粋な京都人ではなく、京都移住者であるのも
おもしろい。
何かを求めて京に登るということなのだろうか?
まるでサムライのようだ。


若きサムライのために (文春文庫)


サムライといえば、三島由紀夫の『若きサムライのために』という本を
ときどき読むことがある。
この本のなかには〈努力について〉という項の一節に、
“努力の価値が一度も疑われなかったというところに、
日本という国の民主主義的な性格がよく表われている”
とある。
どうやら英国では努力のみを尊ぶことを、卑だと考えることもあるのだ
そう。これは最近の日本の傾向と似ているような気がする。


また彼は何が楽であり、何が努力であるかということにけじめをつけたいと
いう考え方をもっているようだ。
私はそこにけじめを求めないが(笑)、彼のいうように楽をすることが
苦しい場合がある、ということには大いに共感した。
仮に100メートルを9.9秒で走れる人に15秒で走らせ、
「もし15秒以下で走ったならば、牢獄にぶちこむ」と言ったとする。
すると三島は、その人間は発狂するかもしれないというのである。
そして人間は能力の100%を出し切ったときに、イキイキするという
不思議な性格をもっているのだ、と彼は言い切っていた。


つまり、能力よりもずっと低いことをやらされるという拷問には、
努力以上の辛さよりもっと恐ろしい辛さが潜んでいる、というのだ。
日本の社会は努力にモラルを求める結果、能力のある人間にわざとのろく
走らせるというようなことをしていると書いている。
しかしながらその社会的な拷問については、触れられることは全くない
はたしてこれはいかがなものか、と。


…これはよくわかるな。
ちょっと届きそうにないところを見据えつつ、不安を感じながらやり
遂げることがなんといっても一番気持ちがイイのだ。
よく単純作業が大好き!という女の子がいるが、私はとてもそんな女の子の
真似はできない。むしろ自分の不器用さが露呈されて、墓穴を掘ってしまう
くらいだ。
しかもそんな苦手なことを続けさせられていたら、発狂のうえノイローゼ
にもなりそうな気がする。


とは言いつつも結局は、自分の能力を見極めるというのが一番難しいこと
なのだろう。
いや、見極められずに拷問への道を辿るというのが、世の常か。