“こういう人になりたい”ということ。

アスパラと海老の炒めもの

今日は簡単に、

アスパラと海老の炒めもの
わかめとネギの中華スープ
とうふサラダ

〈アスパラと海老の炒めもの〉は、ナンプラーとにんにくを入れたのがよかったな。
先日買ったパクチーにつきものだった、ナンプラー。あっという間に、ひと瓶なくなった。
思えば気前が良すぎるほど使っていたな。

3つ下のNさんという女の子がメールを送ってきた。
彼女は私に会う度、将来のことや恋愛のことなど何かと私に相談してくる。
最近彼女は忙しいようで、今回はメール。
しかもお題は“こういう人になりたいなあという想い”が(オシレーターさんにも)
ありますか?ということだった。


どうやら彼女は、テレビで悩み相談を受けているピーコの発言に驚いたらしい。


「結局このコ(悩みを相談しているコ)には、将来こういう人になりたい
っていうような、考えがないのよね。」


ピーコのようなキャラクターなら、私は世の中でただひとりなのよ!という考えが
強く、こういう人になりたいなんて発想はないだろうと、彼女は思っていたらしい。
しかも彼女は“理想”や“憧れ”に甘っちょろいイメージをもっているらしく、
他の誰でもない自分になりたいと言う。


…いいことである。
ただ私には“他の誰でもない自分になりたい”という強い思いなどない。
それに私は、“こういう人になりたい”という考えをもっている人間なのである。
(別に彼女のウラをかいてるわけじゃないんだけど・・・)


もちろん具体的に誰かになりたいっていうのはないけど(真似じゃないから)、
なりたい人間の青写真はある。
その青写真に対しては私はとても忠実で、そこで自分を律しているような気がする。
それはある種宗教心に近いのかもしれない。
私は無神論者だけど。


間口は広くありたいと思っているし、開けておくんだけど、
同時にとても頑固なところがある私。
青写真に忠実でいられるのは、ある種私がとても頑固だからだと思う。


卑しい人間にはなりたくないし、小賢しい手段をとるのも好きじゃない。
なりたい人間の青写真というと、私の場合結局そういうところなのだ。
それに加え、できるだけ自分を育てていきたいとか、こころ穏やかに過ごしたいとか、
若干の肉づけがある程度。
それが私にとって“こういう人になりたい”ってことのような気がする。


私が他の誰でもない自分になりたいと思わないのは、そういう発想は他人の目を
非常に意識しているから出てくるわけで、独特の世界をもっている人はそんな
発想は持たないのじゃないかなあと思っているからである。
周りに惑わされず好きなことをやっていけば、いつのまにか自分の世界には色がつくもの。
自分に矛先を向けておくほうが、はるかに大切なことに思うし、色がつく。
しかもナチュラルに。