“こくご”のノート。

私は本屋に行くのが習慣である。
ほぼ毎日と言ってもいいだろう。しかもそれを何年も続けているのだ。
店員じゃあるまいし、商品をチェックする必要はない。
ましてや、毎日必ず品揃えが変わっているというわけでもない。
それなのに気がついたら、自動扉の前に立っている。
立ってページをめくっている。


知らない町でも、本屋があると必ず入ってしまう。
用もないのに。
だけどついつい入ってしまうのだ。
そこに何らかの欲望があるわけじゃないのに。
さっきはこれを“習慣”と言ったが、ここで訂正したい。これは“癖”だ。


こういう働きバチのような癖をもつ私が、とある町の本屋に入った。
駅前にあるこれといって特長のない本屋である。
敷地は15坪くらいだろうか。小さいとは言えないが、決して大きい本屋ではない。
店員も社長一家とバイト数人が廻しているくらいのごくありふれた本屋である。
そのなかに、文房具を置いているスペースがあった。


毎日出かける本屋だし、都心からちょっと離れている本屋。
品揃えには、特長がないだろうと高をくくっていたが、やはりその通りであった。
それで私は、すぐそこに置いてある文房具に興味が移ってしまった。
もちろんシャレた、かっこいいものなどない。
私が手にとったのは、あの“ジャポニカ学習帳”である。


小さい頃は、これにずいぶんお世話になった。
私に限らずここ45年間くらいの日本の小学生は、みなこれに世話になっているであろう。
花や動物、昆虫など、自然の写真が表紙。糸で綴った本のようなつくりをしているノート。
特に私が好きなのは、低学年用のノートである。
マスメが正方形なのが、好み。
だから“こくご”もしくは“かんじのれんしゅうちょう”がいい。


“罫線がありつつも、マスは広い”というのが、惹かれる要素なのだ。
何か条件を与えられて、そのなかでは自由にしていいよ、と言われているようで、
なんだかとてもうれしい。
制作に理解のあるクライアントや、敏腕な音楽プロデューサーが過ってしまう。


私は小さい頃、このマスをはみだすことがありつつもグングン、のびのびと
大きな文字を書いた。
あの快感は忘れられない。
しかし年齢を重ねていくと、細い罫線のあるノートばかり使わされていくようになる。
それとともに自由な発想も、よそからつまらぬツッコミを入れられ、
文字とともに畏縮していってしまう。


それでも私はなるべく太い罫線のノートを選んだし、罫線をよそに好きなように
ノートを使った。ただ単に、それが気持ちがよく、満たされるからだ。


思えばあのノートのマスは、人間の心理に忠実なのかもしれない。
ストレスがたまっている人もノートを変えるだけで、ずいぶん違ってくるかも。


ああ、なんだか妙に“こくご”のノートが欲しくなってきた。
買ってこようか。いいアイデアが浮かぶかもしれない。