自然がなければ.

タイ、インドネシアスリランカを襲った津波。
自然の力は恐ろしい。何時、どのようなことが起こるかわからない。
変化が読めればいいが、ふだん空や月を見ることさえなくなっている現代人は、起こってみなければ
わからない。

自然観測より、流行観測。マーケティング。
数年かけてつくりあげた大プロジェクトも、数秒の地震でおじゃん。
にもかかわらず、多くの人は疑問を持つことなくそれらに時間を費やす。

自然を前にすると、ヒトは実に愚かしい存在となる。
今回の大災害は、その愚劣さを推して知るべしということなのかもしれない。

都会暮しが長いと、自然の存在があまりにも遠く感じてならない。
時にそれがとても恐ろしく思えるのだ。


自然という体系の一角に私がいるのに、それを完全に見失っている。
時に恐ろしいという感覚さえ、思い出せないことがある。
少なくとも私は自然は恐ろしいと感じながら、日々を過ごしていない。


日々に恐ろしさがあるとすれば、そこには必ずと言っていいほどヒトが介在する。
明日の食い扶持を失わないよう上司に従い、電車のなかで無礼な人間を見ても
息を潜め、集団のなかではいじめに合わないよう意にそわぬことも受け入れる。
そうやって多くの人が、日常の恐怖を回避する。


それらをはるかにしのぐ恐ろしさが横たわっているのに、想像さえ及ばない。
古代の人々のほうが、我々よりはるかに大きなスケールで物事を見ていたように
思える。


それに古代の人々は、自然の恵みに感謝することも忘れなかった。
今は自然の恵みはおろか、「いただきます」さえ言うことのない世の中である。
日々の暮らしに“感謝”などない。


どうやら自然が身近になければ、人間は簡単に変わってしまうものらしい。