純文学の素晴らしさ。

しいたけとピーマンのにんにくあえ。

自炊を続けていると、外食が高く感じて仕方がない。
富士そばや吉野屋くらいの値段であれば割り切って考えられるが、この値段でこれかい!と
ツッコミたくなる外食が多すぎる。
私は決してグルメではないが、客に対して失礼だろうと思えるようなものをふるまうのは、
やはりどうかと思えてしまう。
目先の金ばかりを優先する考えを見せつけられている気がして、味気ない。
こちらは食事をするため行っているのに、味気ない気分になるのがイヤで、ますます外食しよう
とは思わなくなった。

今日は
パセリとトマトのパスタ
しいたけとピーマンのにんにくあえ
かぼちゃスープ

しいたけとピーマンは素揚げにした。そうすると色もキレイで、温かさも保てる。
冬の料理ならではの工夫。

先日、久世光彦さんの演出のドラマを見たせいか、久々に久世さんの作品が
読みたくなった。
現在読んでいるのは、『雛の家』(中央公論社)。


雛の家

最近は、ぐっと惹かれる文章に出会うことなどほとんどなくなった私は、
これを読んで目の覚めるような思いがしている。
久世さんの着眼点の鋭さ、語彙の豊富さ。体験で培われた時代考証
どれをとっても素晴らしい。


帯には“人を好きになるということは、こんなに痛いものなのか”と
記されている。文字どおり恋愛小説である。


彼の作品には、私が惹かれる“艶っぽさ”がある。
純文学になぞられた世界観とも言えるだろう。
このような世界を描くのは、日本文学では彼しか残っていない。


私は10代の頃から、純文学が大好きだった。
要は、読んでいて手ごたえがないとおもしろくないのだ。
気軽に読める文章ばかりでは、いつも富士そばや吉野屋に行っているのと
同じである。ときには食べることだけを目的にしなければ、真の旨さに
出会うことなどないだろう。
音楽も同様である。BGMで流れているのをよしとするのもいいが、
“今日は聞きに行くぞ”と意志を持って出かけるのも大切なことだと思える。


さらに純文学が素晴らしいのは、つくり手の情熱が溢れているのに、
慎ましいというところである。私にとっては最も美しく感じる所作。
これは日本ならではの美学だろうし、これが本来の“粋”なのだと
私は感じている。


最近は「純文学が好き」という人に出会うことは少ない。
唯一、純文学好きと言って思い浮かぶのはEcho Mountainの山本拓馬くん。
京都に行った際にふと純文学の話題になったのだが、話し込んでいくと
私よりはるかにたくさん読んでいて、鋭い見解を持っている。
彼はロンドンで生活をしていたことがあるのだが、海外にいたからこそ
日本の素晴らしさに目覚めたのではないかと思えた。


純文学の美しさに開眼したい。またそこから何かが生まれる気がする。