汎心論。
『劇的ビフォー・アフター』を見る。 今回は、京の町家を外国人の匠が改装するようだ。 荒廃した古い町家を技術とセンスを持って、新しい住処へと変える。 町家の設計を生かしつつ、現代の生活にマッチした居住まいにするのは、 日本の暮らしの今昔を知り尽くしてなければできないこと。 外からの視界を遮りつつ、瞬く星を感じるよう配慮するために、 彼は“ぼかしガラス”を入れた。 “ぼかしガラス”なんて今の日本人さえ、思いつかない発想だ。 また彼は古いタイル貼の流しを利用して、茶室の収納式の水屋にした。 これには本当に驚いた。どうやら茶道にも精通しているらしい。 日本人である私のほうが、はるかに古き良き日本に疎い。 今日は さばの味噌煮 ナスとニンジン、麩のお吸い物 小松菜のおひたし 冷ややっこ
BEAMSで売っている“やかん”が欲しい。
グッドデザイン賞に輝いているだけあって、シンプルで美しい。
いつも買いたいなと思いつつ、購入せずその場を去ってしまう。
6,000円台のシロモノなので、手が届かないものではない。
ただ我が家にあるヤカンの存在が気になる。
上京と同時に私といっしょにやってきたヤカンで、母からもらったもの。
使えるうちは使いたいと思っている。
母が我が家にやってきた時に彼女は台所に立ち、それを熱心に磨いていた。
その姿も忘れられず、買わないでいる理由のひとつにもなっている。
前も話したことがあるが、私はモノにこころがあるということをどこか
信じているところがある。
子どもはモノにこころがあると信じているからこそ、お人形遊びをする
らしい。
さすがにお人形遊びはしないが、私はどうしてもモノを邪険にできない
ところがある。それは長くキレイにモノを使いたいというよりは、
モノにもこころがあるような感じがしてならないからだ。
それに私は、モノを大切に使う人が好き。
そこに使う人の品格を感じてしまうのだ。