「私立円盤大学」@高円寺円盤

昨日、今日と、淋しさがぐっと押し寄せてきた。
秋だからなのだろうか。
中央線へ向かう道のりが、妙に切なかった。
やっぱり秋は好きじゃないな。

今日は高円寺の円盤に行った。
岸野雄一さん×國崎晋さん(サンレコ編集長)の話がきけるからだ。
お二人の言っていること、考えていることにとても興味がある私。
これは行こう!と決めていた。
                                                                 

話はまず、今月のサンレコの話からはじまった。
音楽流通のこと(まさかサンレコがこれをやるとは思わなかった!)、山下達郎氏が
SONYのPCM-3348をやめ、Pro Toolsにしたことなど、相変わらず興味深い
ところを突いてくる。


よその雑誌はどうして、音楽流通について特集を組まないんだろう。
ただ単にターゲットが違うからではないと思う。
気がつかないのか?それとも、大したことではないと思うのか?
サンレコをのぞく、音楽雑誌がつまらなく思えるのも、着眼点の乏しさのせいでは
ないだろうか。


話は、國崎さんの経歴の話に及ぶ。
彼はかつて、オーディオ雑誌の編集をやっていたのだという。
最初はおもしろいと感じていたようだが、オーディオ評論家の音楽の聴き方に
疑問を感じることがあったのだそうだ。
すると岸野さんが「僕は意外と好きですよ。プラスティックスを超高級な
スピーカーで聴きながら、低域が乏しいなどという評論が」などという。
一同爆笑。


その後、音楽を聴くことで“刷新されたい”か?、などという話になる。
PUNK〜NEW WAVEで開眼した私は、聴いていて刷新されなければ、
意味がない。恋をするように、常にドキドキさせられてこそ、音楽なのである。
最近の音楽に触手が伸びないのも、それがほとんどないからなのだが、
なかなか捨てられない。やはり音楽のことが好きだから、どこか未練がましい
のだ。


けれども、私のように感じる人は圧倒的に少数らしい。
新しい音楽との出会いなど求められておらず、自分の思惑を裏切らない音楽が
あればいいという人々がほとんどのようだ。


しかも音楽雑誌において“批判はいらない”と考えている人も多いらしい。
國崎さんもそのひとりだった。批判するくらいなら、ピックアップもしない
のだという。
この点については、立場によってずいぶん違うと思う。
創り手の立場に立てば、批判はいらないという発想もわからなくはないが、
ひとりの雑誌の読み手になれば、批判がなければおもしろくない。
雑誌もエンターテイメントのひとつだから、ツッコミがあってこそ
おもしろいのではないか。


岸野さんは「サイトにおいて匿名で批判するより、雑誌にその機能があってほしいし、
それができる媒体が雑誌なのだ」と言っていた。
そのことばには、非常に共感した。あの『暮らしの手帖』だって『ミュージックマガジン
だって、批判をすることで部数を伸ばしてきたのだ。
花森さんの歯に衣着せない物言いが、読者の信頼を得てきたのだし、とうようさんが
0点をつけることで、その作品に興味がもてるようになってきたのだ。
(ちなみに最近、とうようさんがとある作品に0点をつけたらしい。円盤では
その作品が非常に売れたのだそうだ!)


最近はライターがレコード会社や、アーティストに媚びているようなことばかり
書いているから、雑誌離れが著しいのではないか?
そんな図式を見せられては、全くおもしろくない。
上司に媚びている会社員のようなものを、わざわざ金を払って見る人間が
どこにいるのだろう。


最近は万事が“無難”に、“売れることを目的”に、という内に篭る
ような情熱ばかりで、おもしろくない。
遊んだり、冒険することが、音楽の眩しさだったのに。
要領の良さは、音楽とは逆ベクトルに向かうもののような気がするのだが、
どうなのだろう。


高円寺の駅で電車を待っていると、國崎さんとばったり出会い、
途中までいっしょに帰る。
音楽に刷新されたくないと言っていた國崎さんだが、
私はここ7〜8年のサンレコに、ずいぶん刷新されてきた。
國崎さんは、刷新するのが好きな人だと私は信じて疑わない。
そうでなければ、ああいう雑誌などつくれるはずがない。